松本市

昭和30年(1955)夏?長野県松本市 四ツ谷町に引越し。清水保育園に通う。お寺が経営していた
と思います。給食はなく、弁当かパン屋でパンを買って行きました。ただ、保母さんが、「アメリカのバ
ターだから少しでいいの」とか言って、ほんの少しバターを園児に配給していました。
これはアメリカからの援助物資だったのだろうか?ケア物資?よくわかりません。
この保育園でも保母さんに叱られた記憶があります。理由は忘れましたが、お寺の本堂の裏でしから
れました。

昭和32年(1957)市立清水小学校に入学。50人学級で、1組でした。6組まであったと思います。同じ
クラスに私とおなじ名前の生徒が2人いました。石井と山岸だったか?担任は遠山先生。決してよ
かったとは言いませんが、昔は体罰なんてあたりまえでした。たしか図工の授業でグライダーを作る
際、少し間違えてしまい、学芸会で杖として使った木の棒で頭を何回かぶたれた記憶があります。
その時は本当に痛く、先生を恨みましたね。今でもべつに許しているわけではありません。
皇太子と正田美智子さんの結婚があったとき、男子は無理だが、女子は皇室に入ることができる、
ということを先生が言っていました。なんとも思いませんでしたが。
この小学校には北体育館と南体育館(講堂兼用)の2つ体育館がありました。
それだけ生徒数が多かったのでしょう。団塊の世代がいたわけですから。プールは在校中にできまし
た。
女鳥羽川沿いには、教科書にも載っていた、開智小学校がまだ現役で使われていました。象徴的な
塔は叱られる部屋だなどと言ってました。
テレビはNHK2局と信越放送の3局でしたが、父親の勤務先の工場の宿直室へ見に行ったりしていま
した。
その頃の事

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