関市

昭和35年(1960)12月岐阜県関市 片倉町に引越し、市立安桜小学校に転校する。4年の3学期
からです。なにしろ、言葉が違うのには戸惑いました。三鷹、松本は関東の言葉でしたが、ここは関
西で、松本の信州弁に染まっていた私は、最初は会話がぎこちなかったです。相手に呼びかけると
きに、今までは「おめェ」などと言っていたのに、言葉が出てこなくて、つい「きみ」などと言ってしまい、
自分でも気持ち悪かった。でもすぐに、こちらの言葉に染まってしまいました。子供のときはすぐ覚え
るもんです。ここには3年住んで東京に戻ったのですが、大学生のとき、札幌の人に名古屋の人と
しゃべりが似ている、と言われたことがあります。自分では気がつきませんでしたが、ちょっとびっくり
しました。
学校では、担任が女教師(高垣先生)だったのにはとまどいました。前の清水小学校には女教師は
ほとんどいなかったので、女の先生にはほんとに驚いたものです。それと校舎が鉄筋コンクリートの
3階建てにも。ちょっとしたカルチャーショックで、岐阜県はすすんでいるなぁと思ったものです。ただ、
給食はまだでした、すぐに始まりましたけど。プールはないので、水泳の授業は近くの津保川で実施
しました。夏休みの水遊びは小瀬川(長良川)へ行きました。水量も多く、鮎がいっぱい泳いでいるの
がわかり
ました。今はどうでしょうか?

昭和38年(1963)市立緑ヶ丘中学校に入学。ここも生徒数が多く、体育館は区切られて教室として使
われていましたので、バスケットボールの授業はグランドのコートでした。プールはなく、水泳の授業
はなかったと思います。
その頃の事

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